・川崎市幸区「鹿島田病院」にて出生。7月10日午後3時5分の歴史的出来事。身長51cm、体重3450g。
・川崎市高津区(現:宮前区)にて、幼少期を過ごす。大家族の生活は、少年の思考を人より早く大人にした。
・白百合幼稚園に入園。年少のゆり2組の先生は「うえはらせつこ先生」。年長のしろばら2組の先生は「おかみやともこ先生」。このとき遊びで暗唱したうえはら先生の住所は、なぜか今でも覚えている・・・。♪東京都、世田谷区、池尻、3の××の・・・。
・親戚の結婚式に初めて出席する。お祝いの席で、「山口さんちのツトム君」を熱唱した私は、拍手喝采の後、「2番もあるんだよ。」と言って、結局3番まで歌った。さらに、その後いきなり別の歌を歌い始めた。(らしい・・。本人に当時の記憶はない。)
・宮崎小学校に入学。はじめてもらった通信簿は、もちろんオール「イ」。(注:当時、1・2年の成績は、イ・ロ・ハの3段階でつけられていた。)
・松田聖子がデビュー。小学生の私には、「小麦色のマーメイド」の歌詞、「Wink,Wink,Wink・・・」が聞き取れず、何を言っているのか分からなかった。
・クラスメイトの「ごうし君」は、大の中森明菜Fan。聖子命の私とは、うまがあうはずもない。
・目立ちたがり屋の私は、学校の内外でリーダーシップを発揮する。英会話教室の英語劇コンテストでは、主役に立候補し、見事「審査員特別賞」を受賞。ちなみに、からすの役だった。
・宮崎中学校に入学。親の「運動部に入れ」の指令により、卓球部に入部。ホントはブラスバンド部に入りたかったのに・・・。そんな理由で入った卓球部が長く続くはずがなく、1年後には帰宅部へ転部した。
・中1の夏休みに初めて書いた弁論(タイトルは「涙」)が、なぜが校内予選を勝ち抜き、なんと学校代表に。勝因は内容ではなく、「読み方」にあったらしい。
・まだまだ目立ちたりない私は、生徒会の副会長に立候補。ところが、選挙はすべて信任投票。実は、事前に役員全員のリストアップが先生達の手によってできていたらしく、飛び入り立候補の私の為に、誰かが辞退していたらしい。こんなところにも、日本の腐敗した政治体制の影が・・・・。
・この頃、AMラジオをよく聞くようになる。私は所ジョージの「バホバホ派」だったが、姉は三宅祐次(だっけ?)の「ヤンパラ派」だった。そういえば、ドカンクイズとか、聞いていたなあ。
・当時の我が家にとって「私立高校」とは、金持ちの道楽でしかなかった。当然自分は県立多摩高校へ進学を決める。(ホントは某国立高校を受験するも、見事落ちる。)
・中学の時、親の希望を押し付けたばかりに、部活動を3年間続けることができなかった。今度の親からの指令は「何でもいいから、3年間つづけろ」だった。そして、念願の吹奏楽部へ。
・入部を希望したが、楽器の名前なんてサックスくらいしか知らない。ということで、サックスを担当することになる。
・高校2年で初めてアルバイトを経験する。場所は「ジョイガーデン鷺沼店」。普段は、5時半に部活が終わるので、6時半から。テスト前は部活が休みになるので、ひたすらバイトに励んでいた。長期休暇中には、深夜11時まで働いていたことも。
・この頃、街のゲーセンやボーリング場の一角にカラオケボックス(ホントにボックスだった)が出現。アルバイトで羽振りの良かった私は、よく授業をさぼって歌いにいった。でも、部活の時間になると、ちゃんとタクシーで学校に戻った。(えらいだろ!)
・友達などの影響で、今まで大嫌いだったスポーツ観戦をするようになる。東京ドームで巨人戦を見たり、代々木体育館でバレーボールを見たり、TVでF1を見たり・・・。
・高校3年の春、初めて予備校を体験。受験勉強というより、「予備校通い」を楽しんでいた。あの時お世話になった数学の岡本先生は、いまや代ゼミの顔。前田の物理は、マニアック過ぎで私には理解不可能。
・クリスマスの日、神奈川大学を受験。合格発表は、センター試験の1日目。この合格を勝ち取った私は、翌日のセンター試験2日目の帰りにカラオケボックスへ…。
・担任には「浪人しないのか?」と最後まで言われつづけたが、結局神奈川大学へ進学。だって、日本一の吹奏楽部があるのだから…。
・大学の吹奏楽部では、バスクラリネットを担当。1年から3年まで全国大会で金賞を受賞。3年の時にはプレイヤー兼マネージャーとして、全国大会10年連続金賞受賞の記念すべき表彰式の壇上に。
・大学入学当時、自分は大学院へいくものだと思っていたが、部活に明け暮れ、全く勉強せず。よく4年で卒業できたものだ。ちなみに、卒業研究は1ヶ月で書き上げた。テーマは「東急東横線における輸送システムの分析と輸送量増強に向けての提案」
・研究室の先生には大学院進学を勧められたが、結局就職をすることに。東京ドームの合同就職説明会を経て滑w究社に入社。
・サラリーマンを嫌った私が選んだのは塾講師。吉祥寺の街で中学数学を指導。
・年功序列の賃金制度に不満を持ち、そして将来に不安を感じる。この頃相次いでネットワークビジネスを紹介され、勉強会に出席するようになる。そういえば、自己啓発セミナーにも行ったなあ。
・細々と行っていた就職活動。ある日知人から「香港へ行かない?」と電話をもらう。あのとき、まさか自分が海外で生活することになろうとは、夢にも思わなかった。
・視野が狭く、頭の硬い自分に人生経験を与えるため、香港行きを決意する。
・初めての海外、初めての一人暮し。過去に振り回されない新しい生活が始まる。
・一人暮しを機に、Cookingにチャレンジ。これが、結構楽しい。ご飯はもちろん炊飯器ではなく、鍋で炊いています。
・初めての海外旅行にチャレンジ。行き先はシンガポール。(会社の仲間がいるから。)それ以来、アメリカやバリ島へ行ったのだが、わたしの旅はほぼすべて一人旅。
・ホームページ作成にチャレンジ。アクセスアップのために、メールマガジンの発行も行う。テーマはずばり「香港」について。
・初めて出張を体験。それも、シンガポールへ「海外出張」。
・2つめのメールマガジン配信開始。今度のテーマは私の好きな「データ」について。
・2度目の出張はオーストラリア・ブリスベン。出張中に3日間の夏休みをもらい、シドニーへ遊びに行ってきました。
・5度目の海外旅行は初のアワードチケット。JALのマイレージを利用して日本&台湾へ無料で旅行!!
・会社に特別の休みをもらったので、両親を連れてオーストラリアへ。一人旅の方が気は楽だが、親孝行もでき、楽しい1週間でした。
・夏休みはヨーロッパを狙っていたのに、会社の出張でまたもやオーストラリアへ。ブリスベンからエクスカーションの夢、今年は果たせず。でも、なんと異国の地で6年ぶりにドライブ。走りやすかったけど、ちょ〜緊張した!!
・夏休みに出張が入ったため、9月に1週間特別休暇をもらってアメリカへ行くことに。ニューヨーク行きを希望するも、チケットがとれずにサンフランシスコ&ラスベガス。ところが!! サンフランシスコからラスベガスに移動する日の朝、あのテロ事件勃発!! 訳もわからず空港で足止めをくらい、結局ラスベガスにも行けず、予定の日に香港にも帰れず、サンフランシスコで10日間過ごしました。でも、本当だったらあの日にニューヨークにいたかも・・・とか思うと、チケット取れなくて良かった!!
・もはやここまで来ると意地!! 秋休みは6日しかなかったけれど、強行スケジュールでベルギーへ。これでユナイテッド航空マイレージプラスの「プレミアエグゼクティブ」資格とスターアライアンスの「ゴールド会員」資格ゲット!!
・21世紀はじめの年は、今までで最もたくさん飛行機に乗った。総飛行距離は約8万マイル!!(ほとんど自腹です!!)
・2002年。香港からシンガポールへお引越し。なんでかしらないけど、「アシスタントマネージャー」という肩書きまでついていました。
・2003年の夏には、生まれて初めて「友達と海外旅行」を経験。(といっても、現地集合・現地解散だけど。)私が飛行機旅行にハマるきっかけに。
・何度となくマイルを使ってビジネスクラスに搭乗していたのが、国内線やバンコク発券などのチープなビジネスクラスの航空券を自費で購入して乗るようになる。
・会社に内緒で旅にでることが多く、飛行機をテーマにして新WEB「Air Museum of Civil Aviation」を立ち上げる。
・coolのサイトが埋め込み式広告になってしまったので、初めて有料のレンタルサーバを借りることに。ここに、「The Fun of Budget Travel」と「Air Museum of Civil Aviation」を合体させた「Budget Traveler's WORLD」を立ち上げる。目標は、ずばり広告収入があるくらいのメジャーサイトに!!
・2005年2月27日。7年弱の海外生活に(一旦)ピリオドを打ち、帰国。1年間限定の「ぷ〜」生活が始まる。
・派遣に3社登録して細々と働きつつも、バンコク発券の世界一周をはじめ、旅行しまくり。おかげて全日空のダイヤモンドとシンガポール航空のPPSを獲得しました。
・1年の休職期間を経て日本の会社に再就職するも、7ヶ月で退職。
・香港時代の先輩から、「北京に来る?」とお誘いをいただき、第4の故郷とするべく、北京に赴く。給料は日本の半分になっちゃったけど、その先は自分の力で切り開いてやる!!
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